あらい汎は、荒井範昭だった小学校5年生の春、俳優という仕事に就きたいと思いました。
ご他聞にもれず、学芸会でその気になってしまったのです。
信州(長野県)の諏訪湖のほとり、今は汚れてしまいましたが、当時は夏になると、諏訪湖横断水泳大会。冬は全面結氷で、地域の学校は、それぞれが独自のスケートリンクを持っていました。
高校を卒業し、舞台芸術学院という演劇専門学校に入りました。
スタイル抜群のシティボーイ、目元パッチリかわいい娘、経験豊な低音の魅力。
才能ありそうな者たちが集まっておりました。。
文化環境の薄い田舎者は、それでも役者を目指していたのです。
ジェームスデーンになるぞー。
根拠なき自信。故郷への意地。
私の声は母譲りの悪声です。子どもの頃、電話に出るとよく間違えられました。
お前の声は人間の声じゃない。オペラ歌手だった演劇学校の発声の先生。
声帯を手術する事も勧められました。痛いの嫌い。肉体訓練を選んだのです。
発声体操、ヨガ、柔軟体操、仏教体操、呼吸訓練、パントマイム。
肉体表現に興味が移っていきます。パントマイム役者で食べていこうと考えました。
銀座のシャンソン喫茶の入り口に看板代わりの人形で立ち、歌の合間に舞台に出させてもらいました。
それまで見た事のあるマイムは、来日公演2度目だった、マルセル・マルソーの舞台。
壁や綱引き、風船や蝶々とりのマイム。真似をしていたのです。
1972年、10年ぶりにアメリカから帰国したママコさんと出会い意気投合。
ママコザマイムスタジオのお手伝いと共演。芝居もやりたいと転形劇場にも所属し、貧乏芸人真只中。
30歳にならんとした年、ママコさんに誘われ、フランスではなくアメリカへ。マイムとクラウンの勉強やり直し。ヴィスコンシン州の演劇学校「ヴィテルボカレッジ」の講習生。
転形劇場10年、ママコザマイム3年。ダブってます。
独立。スタジオ汎マイム工房。覚悟の一人旅。いつの間にやら仲間が増え、1976年、劇団「汎マイム工房」設立。
マイムと出会い、人と出会い、風と語り、時と語り。マイムして40年。
文化の領域に入ってないパントマイムを文化の先鋭の場所に高めるために、劇に対抗できるマイム劇を目指し出発。幾本かのマイム劇を生み出しながらも、劇団員をソリストとして育てるという信念との矛盾を抱え40年。
今、新たな育成とマイム劇の創作と、自己の役者生命の結論に向けて歩き始めています。
2012年映像役者として大杉蓮さん主宰の事務所に所属。
新人、あらい汎。 仲間を募っています。